Profundum

2024.12.4 記入者:大岩(サービス管理責任者) 

 

支援員T「さっき落ち葉がすごくてさぁ、バァーッと風が吹いたらめちゃくちゃ葉っぱが落ちてきて、そしたらHさんそれにすんげぇ喜んじゃって!車椅子の上で手をひろげてめっちゃ笑ってたよ」

支援員N「あ~、こっちに来るときに手に葉っぱつかんで振ってくれてたの、だからかぁ~(笑)」

 

十二月、木犀の香はとうに去り、うつくしく清明な日がつづいています。さんぽをするご利用者の足もとにはらはらとおりてくる葉は「掃けば散り 払えばまたも 塵積もる 人の心も 庭の落ち葉も」という古歌の風情で、落葉樹の葉のひとひらひとひらは、刈安や金糸雀の色をへて樹皮や土の焦げたような豊かな色合いへうつろう季節となりました。

 

 

およそ生きがいなのかとおもえるほどくちをひらくごとに不平不満や愚痴、一知半解の非難や陰ぐちを落ち葉のように降り積もらせることを惜しまない者は、その透明なエネルギーにみずからがくるりとつつまれ埋もれ、生涯、不幸不遇なままだといいます。

人と人とのささいな摩擦や苛立ちからくる日々のささくれは落ち葉を掃くようにあつめて払い清めることができればよいものの、おおくのばあい、うまくはいきません。だからこそ「人の心も 庭の落ち葉も」と塵積もる心のありようが古人によって詠まれ、現代にも継がれ残っているのかもしれません。

 

 

「人は大いなる深みなり」(grande profundum est ipse homo)

A.アウグスティヌス

 

しかし日中活動では、ひとつのものごとに素心をもってとりくんでいたり、不規則に声を奏でたり、さきほどまでの機嫌の悪さがウソのようにあっけらかんとされていたり、ムフフとおひとりで何やらニヤニヤとされていたり、ときおりてのひらを宙にひらひらとゆらすなど多様な方たちの姿があり、ご利用者のほとんどがいわゆる不平不満や陰ぐちとはちがう世界で実り豊かにすごされているのがわかります。

 

ソファに釈迦のごとく鎮座し、ぴくりとも表情をうごかさず馬耳東風といった姿を示していたご利用者がこちらを一瞥しほんの一瞬だけ微笑をうかべたとき、おのれの底抜けの愚かしさを見透かされた気がしました。

 

 

 

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