2022.12.2 記入者:大岩(サービス管理責任者)
眼に惹きつけられる、ということがあります。
なにかに熱中してとりくんでいるときの眼、なにげなく互いに挨拶を交わしたときの眼、じっとただひとつを見つめる眼、好きなもの・ひと・ことを前にしたときの眼──それはよろこびや戸惑いや哀しみ、さまざまな感情をあらわします。ご利用者一人ひとりの眼もまた、それは時に痛切にあいての心をとらえ、時として言葉よりも雄弁に語り、受け手であるわれわれはその理解をしずかに委ねられます。
眼、それは言葉をもっているようにさえおもえます。
たとえばハワイ先住民の言葉は、発話の息継ぎによって表そうとする意味がまったくちがったものとなり、それが言葉の抑揚をこまかく変化に富んだものにしています。アイヌ語においてはひとつの言葉は多義的なひろがりをもち、その多義性において語に豊かな表象性があたえられるといい、スワヒリ語の単純な繰りかえしはまるで音楽のように反復し響きます。
言葉が一つ一つの言語によってちがいをみせるように、一人ひとりの眼にも言語があるのではないか、とすら感じます。
眼は意志であり、自分自身であり、力であるということを、日々の暮らしのなかでご利用者は説得力をもって示してくれます。
ご利用者の日々の暮らしのうちにある眼に惹きつけられながらも、そこにひそんでいる言葉を読みとり応えられているだろうか?──ときに眼は一枚の鏡となって、そう問いかけてくる気もするのでした。